可愛らしい猫ちゃんが案内してくれますよ♪

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演劇集団・風煉ダンスが放つ久々の野外劇『泥リア』2015が行われている吉祥寺(三鷹?)の井の頭公園を歩くと、ジブリ美術館の裏手辺りでこんな看板に出会うと思います。
探検気分で公演場所を探してみても楽しいかもね。

テント公演ってのはあっても純粋野外劇ってのは珍しいしユニークです。
それは体験してみればわかりますって♪
僕も観劇してみて「なるほどねぇ~」と納得しまくりでした。
特にこの作品の野外劇を望む声が高かった理由も作品を観て理解できました。
これこそ野外というスケールの大きさが似合う作品でした。

公演は9月28日(月)までです。
本日を入れても目撃できるチャンスは残り3回のみの公演です。

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▼「泥リア」2015 特設サイト
http://furendance.wix.com/dorolear2015
▼【動画インタビュー】風煉ダンス「泥リア」作・演出の林周一さん
https://www.youtube.com/watch?v=B23C8HcBZAI


モノが語る人々の記憶
忘れ去られたものたちの姿が再びよみがえる
封印したはずの記憶の扉をひらいて

【公演概要】
井の頭公園野外劇フェスタ2015 「泥リア」
【日時】2015/09/19(土) 〜 2015/09/28(月)
 全公演 開演17:30(受付・開場16:30 入場は受付順)
【会場】井の頭恩賜公園西園(ジブリ美術館奥の広場)
【料金】一般 前売3800円 当日4300円
    学生 前売2800円 当日3300円(18才以上)
    高校生 前売1800円 当日2300円
    中学生以下 無料

「泥リア」
ーW・シェークスピアの「リア王」をベースに、
娘たちに疎まれた痴呆症の老人が王と道化に分裂して
封印したはずの記憶に迷い込み魂の荒野を彷徨うー

2011年5月末、震災と原発事故の傷跡がまだ生々しい頃「泥リア」は上演されました。
公演後、再演を望む声や「是非野外劇で」との声を多数いただきました。
あれから4年。変わってしまったこと、全然変わらないこと。
忘却の果てにわたしたちは一体何を忘れ何を置き去りにしてきたのでしょう。
「泥リア」は、ひび割れぺんぺん草の生えたあの大地のその下で未だ乾くことなく呟いている泥の人々の声を、
大地を彷徨う魂の声に耳を傾け、ささやかでも決して失うことのできない光を求め、再び観客の前に立ち現れます。

〈あらすじ〉
江戸川林太郎は痴呆症を煩う老人。彼には三人姉妹の娘たちがいたが、林太郎の妻やすこの葬儀の席で、誰が林太郎を養うかで家族争議になる。そんな中、家を抜け出し行方不明になる林太郎。
彼と林太郎を探しに出た婿養子の江戸川ミチヒコはいつしか林太郎が封印したはずの記憶の迷路に迷い込む。そこはまるでシェークスピアの「リア王」の物語世界のようでもあり、また林太郎が「あの日」と呼ぶ記憶の住人たちが彷徨う混迷の世界だった。

▽ CAST
飯田孝男
河内哲二郎
内田晴子
塚田次実
佐々木潤子
反町鬼郎
リアルマッスル泉
飯塚克之
山内一生
吉成淳一
園田シンジ
御所園幸枝
堀井政宏
田中田田田
春田奨
吉田佳世
横山展子
外波山流太
みぞぐちあすみ
林周一

▽音楽/演奏
辰巳光英 (Tp)
関根真理(Perc)
ファン・テイル(G)

▽STAFF
作/演出 林周一
ドラマトゥルク:青山健一
演出助手:櫻井拓見
舞台監督:荒牧大道
美術:笠原真志 / 深川信也 / 後藤淳一 / 南波瑞樹 / 青山健一 / 横山展子  
衣裳:仲村祐妃子
振付:佐々木潤子
照明:辻井太郎
照明操作:前田さやか
音響:島猛
音響操作:牧野宏美
舞台協力:横沢紅太郎 / 安部田宇観
衣裳協力:牧野善幸
宣伝美術:青山健一 / 笠原真志
写真 / 記録:添田康平
制作協力:澤田春江 / たけうちみずゑ / 上木文代
協力:井の頭恩賜公園100年実行委員会 / 発見の会 / にしすがも創造舎

▼演劇集団 風煉ダンス
http://furen-dance.info/dorro2015/doro_top.html
▽フェイスブック 風煉ダンス
https://www.facebook.com/furendance
▼ツイッター 風煉ダンス
https://twitter.com/furendance

▼「泥リア」によせて~ 「泥リア」と林周一の作劇   笠原真志
https://www.facebook.com/photo.php?fbid=1033205580057477

 2011年5月、あの未曾有の震災と度し難い人災からわずか2ヶ月後、『泥リア』の公演は行われた。
〈娘達に疎まれた痴呆症の老人が王と道化に分裂して魂の荒野を彷徨う〉そんな構想で始まったこの芝居は、あの3月11日を境に、公演を中止するか、台本を書き直して全面的に状況に立ち向かうかの選択を迫られた。
「何年か後になって、無知で恥ずかしい芝居をしたと思ってもいいじゃないか。」僕らは後者を選び、林周一は、〈たった一人の老人の狂気〉、その老人が漕ぐ自転車のダイナモから発電された小さな光が、家族や、震災で名前すら失われて泥の中に埋もれた人々を照らし出すというラストシーンを書き上げた。
 風煉ダンスは1990年に林の『ジラルナ』という作品で産声を上げた。「僕が海になろう!」一人の女性、一輪の花のために自らの手首を切り、そこから溢れた青い血が、殺人すら自由となった狂った世界を海に変えるというラストシーン。〈たったひとりの男の狂気が世界にもの申す〉という書き手、林の姿勢は、既にこの時に始まっていたのだ。
 そして翌年の公演『神のみぞ知る』。
稽古の直前に湾岸戦争が始まり、時の国連事務総長が発した言葉をタイトルにしたこの芝居は、自らの芝居をぶっ壊すように、出演者全員がダイナモ付きのペダルを漕ぎ、〈自らの行為でしか自らを照らすことはできない〉というシーンで幕を下ろした。
 
 2005年の『嵐の犬松Z』では、沖縄戦で泥の下に埋もれた〈泥家族〉が登場する。希望も記憶も泥の中に散り散りになりながらもそこに存在し続けるしかない〈泥家族〉は、『泥リア』に登場する〈泥の人〉に通じる。〈泥に埋もれて人々の記憶から失われていく者たち〉に対する眼差しはここから始まった。
 『泥リア』以降、まるで震災や『泥リア』の重苦しさを避けるように、ドリトル探偵とその助手トビオの一夏の冒険を軽快に描いた『ゲシュタル島崩壊記』を書く。しかしその中でも林は物語の舞台となる〈ゲシュタル島〉という島が、実は放射能により巨大化した亀の背中であるという仕掛けを用意した。
 チェルノブイリとフクシマを想起させる〈モドリノの森〉を舞台にその森に棲むという〈怪物〉の気配に振り回される人間たちを描いた『レーニン伯父さん』。
 そして「東北6県ろーるショー!」を率いる白崎映美との出会いから『まつろわぬ民』を書く。東北のまつろわぬ=服従しない民に思いを馳せながら、ここでも林は白崎演じるゴミ屋敷の老婆スエの妄想に翻弄され、国会議事堂前に黒いゴミ袋をぶちまける男の〈たった一人の狂気の戦い〉を描いた。
 さて『泥リア』である。その後の三作品が物語るように、今の状況に〈芝居〉で立ち向かうと決意した林のターニングポイントである。あれから四年の月日が経って、今一度『泥リア』に向かうしかないと漕ぎ出した林のペダルはいったい何を照らし出すのか。
                         笠原真志

▼TOKYO_HEADLINE 2015.08.23 Vol.649
3.11から4年。忘れちゃダメだよね 舞台 風煉ダンス『泥リア』
http://www.tokyoheadline.com/311%E3%81%8B%E3%82%894%E5%B9%B4%E3%80%82%E5%BF%98%E3%82%8C%E3%81%A1%E3%82%83%E3%83%80%E3%83%A1%E3%81%A0%E3%82%88%E3%81%AD%E8%88%9E%E5%8F%B0-%E9%A2%A8%E7%85%89%E3%83%80%E3%83%B3%E3%82%B9_156594/

 風煉ダンスは1990年に旗揚げした劇団。もう今年で25年になるのだが、開店休業中の時期もあり、決して作品数は多くはない。しかし生バンドによる劇伴やアーティスティックな舞台セット、スケールの大きい野外劇といったインパクトの大きい作品で根強いファンを持つ。そしてその作品世界は常に時代に対する批評性にあふれ、見る者に“気づき”を与えてくれる。

 そんな彼らが2011年5月に発表した『泥リア』は、その3月に起きた東日本大震災に真正面に向き合った作品だった。

 リア王をモチーフとした同作は「娘たちに疎まれた痴呆症の老人が王と道化に分裂して魂の荒野をさまよう」といったお話。老人がさまようのは震災前後と過去と未来、死者と生者の狭間。ふらふらとさまよう中で、原発や震災を想起させるキャラクターに遭遇し、そこで起こるさまざま出来事に観客の心は大きく揺さぶられた。

 この作品が9月19日から井の頭恩賜公園 西園(ジブリ美術館奥の広場)で再演される。

 作・演出の林周一は「もともと再演してほしいという声が多かった。野外でという声も。でも僕たちは別にそんなに再演にはこだわっていなかった。ただ、主人公の老人が劇場の中ではなく、外をリアルにふらふら歩く姿を見てみたいという初動的な衝動に駆られた。いざやるとなったら3年でもなく5年でもなく、4年という時間がしっくりきた。やるなら今かなって。4年間にいろいろなことがあったけど、あれだけ衝撃を受けたはずなのに、自分たちの中でも記憶が薄れている。でもいまだに2万人近い人が仮設住宅にいるという状況は変わっていない。しかも原発はますますひどいことになり、住めない場所はそのままになっている。“これはなんだ?”“4年経って自分たちはどう考えているのか?”ということを考えた。だから再演という気持ちではない。むしろアンサーソング?という感じ」と話す。

 再演にあたっては「震災を忘却している人に“ちゃんと思い出してほしい”という意味もある。でも震災は過去ではなく現在進行形。過去の時間を見せるというより、現実に引き戻し、まだこれから続く時間に思いを馳せたい。自分もみんなも」という。

 公演の詳細は風煉ダンスHP(http://furen-dance.info/)で。

▼SPICE - エンタメ特化型情報メディア スパイス
風煉ダンスの問題作『泥リア』復活。井の頭公園にて野外上演中。
3.11からの問題に真正面から取り組んだ問題作
http://spice.eplus.jp/articles/14566

※ネタバレあり。閲覧注意?【泥リア】観劇ツィートまとめます【野外劇】
http://matome.naver.jp/odai/2144146381305187801

▼血煙を上げる詩情  木村友祐(作家)
http://furendance.wix.com/dorolear2015#!recommend/chrj
 昨年はじめて、風煉ダンスの舞台『まつろわぬ民』を観た。震災をモチーフにしたとの前情報はあったけれど、主演の白崎映美さんから「ゴミ屋敷の話」だと聞いて、腰が引けた。それでおそるおそる観たのだが、観終わったあとは体温が3℃くらい上がっていただろう。さんざん笑って、気がついたら涙をしぼるように泣いていた。今でも、思いだすと胸が震えだす。
「破格の手づくりスペクタクル」とでもいうべき風煉ダンスの舞台には、大仕掛けの派手さや娯楽性といった見かけの奥に、たしかな詩情が流れているのだった。その詩情とは自己満足のものではなく、声を発せられない者たちへ寄せるあふれる想いであり、情け知らずの社会に向けた骨太な批評である。
 その彼らが、震災2か月後に上演したという『泥リア』を再演する。ぼくをふくめて多くの表現者が沈黙せざるをえなかった時期に、あえて逃げずに震災と向き合った作品らしい。彼ららしい誠実さであり、大馬鹿者ぶりである。
 おそらくその制作は、血煙を上げるような苦しい格闘だったはずだ。そうしてできた『泥リア』を改作し、震災4年後の現在に向けて新たに問う。これはもう、期待しないわけがない。

▽【動画】泥リア(2011) ダイジェスト映像(2013年7月「レーニン伯父さん」告知付
https://www.youtube.com/watch?v=PG7GNDHohH0


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