44年前のある激突死・・・。

44年前のある激突死・・・。

44年前のある激突死・・・。


先日、バイクで国会周辺を仕事で走っていた時のことでした。
それは、まるで水底に溜まった泥の中からプクリと小さな記憶の気泡が立ち上がり、ゆらゆらと静かに浮かび上がって水面でパチッと弾けたような感触で、ふと脳裏に甦ったのが「議事堂?正門?ナナハン?自殺?確か・・・随分と昔に・・・この場所は・・・誰かがバイクで門に突っ込んで亡くなったはずの場所だったんじゃなかったのか・・・」という断片的なキーワードにも似た微かで遥かなる記憶でした。
それにしても、「何時」「誰が」「どんな理由」でといった事件の細部の輪郭まではその時には瞬間的には思い出せませんでした。
それでも何故か忘れ去ってしまってはいけないような直感もありましたが、それが「政治の季節」が吹き荒れた70年安保闘争前後に起きたひとつの事件だったような曖昧な記憶に行き着かせるのが限界でした。
もしかすると10数年ぶりにバイク生活にリターンしたが故に導かれたような不思議なフラッシュバックだったのかもしれません。

とりあえず事件のアウトラインを知るためにと44年前の4つの全国紙の事故翌日の第1報の記事を縮刷版から抜き出してみました。

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【出典】朝日新聞 1973年(昭和48年)5月21日(月曜日)
【タイトル】事故?自殺?ナゾの暴走/国会正門に激突死/沖縄出身の“安全運転手”/時速70キロ、オートバイ直進
【リード】
二十日午後、国会正門の鉄格子のとびらに、オートバイに乗った沖縄出身の青年が猛スピードで激突、死んだ。現場検証の結果や、目撃者の話を総合しても、ぶつかるまでブレーキを踏んだ跡もない。「サーキット族ではないか」という警察の質問に対し、彼を知る人はだれもが「慎重な安全運転手」と答え、まして、自殺の心当たりなど全くないといい、その死はなぞに包まれている。
【本文】
 同日午後三時五十分ごろ、東京都千代田区永田町一丁目、国会正門左側の国会正門の鉄格子のとびらに、日比谷方面からのぼってきた黒ヘルメットをかぶった若い男の運転する黒塗りの大型オートバイが猛スピードで激突、転倒、男は頭の骨を折って即死した。
 麹町署の調べによると、男は運転免許証は持っていなかったが、ヘルメットの内側に「上原」のネームがあるのと、オートバイのナンバーから、神奈川県川崎市川崎区■■■■■、■■■アパート、運転手上原安隆さん(26)とわかった。
 上原さんは、沖縄県石川市東恩恵出身で、昨年十二月から自宅近くの運送業、■■■興業(■■■■■社長)に勤めていた。四十六年九月に大型二輪免許を取っていた。
 国会正門で、事故当時立番勤務をしていた警察官の話では、上原さんは同正門前のT字型交差点の信号が青になったとたん、猛烈なスピードでダッシュ、そのまま時速約七十キロで約五十五メートル離れた門に突込んだ、という。現場検証の結果、ブレーキを踏んだ跡はなく、ハンドルも左右に切った様子がなかった。
 国会正門は、高さ二・六メートル、幅二・九五メートルの鉄格子のとびら二枚が、内側に観音開きに開くようになっているが、上原さんは右側のとびらのほぼ中央に激突、とびらはこのショックでカンヌキがはずれ、内側に押しまげられた。
 調べによると、上原さんは四十六年ごろから新宿区のタクシー会社に一年ほど勤めていた。昨年暮れ同社をやめたあと一度帰郷、ことし一月末、■■■興業に勤めたという。
 タクシー会社にいた当時、青色のオートバイに乗っていたが、四十七年九月に、上野の中古車センターでホンダ型七五〇㏄のオートバイに買替えたという。
 麹町署は遺書もないので、最近「オトキチ」といわれるスピード狂の間で、障害物に向かって猛スピードで突進し、直前でハンドルを切って横に逃げるゲームがはやっているところから、上原さんが国会の正門相手に、同ゲームをしようとして失敗したとの見方を持ち、友人たちから事情を聞いたところ、上原さんの運転は慎重で、仲間でも抜群にうまく、タクシー会社にいた時には、安全運転の表彰を受けたこともあるという。事故の様子を聞いても友人たちは「信じられない」と口をそろえた。
 上原さんは明るい性格で、悩んでいた様子もなく、十九日夕も、仕事を終えた仲間三人が上原さんのアパートの部屋に集まり、恒例の“県人会”を開き、夕食を食べながら故郷の話をし、コザ市で修理工をする兄さんの話などをほがらかにしていた、という。二十日午後三時すぎ、「ちょっと会社へ行く」と同僚にいってアパートを出たが、いつまでも帰ってこないので、友人が不思議に思っているうち、警察から事故の知らせがあった。
 沖縄返還問題や、小選挙区制問題など、政治問題に特別強い関心を持っていたわけでもなかったという。■■■社長も「事故の原因は全くわからない」と首をかしげていた。

【写真キャプション】上原さんが乗っていたオートバイ=20日午後7時、国会前で/激突のあと/オートバイが激突、曲がった国会正門のとびら。洗い流したあとに油が浮いている=20日午後6時50分

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【出典】読売新聞 昭和48年5月21日(月曜日)
【タイトル】衆院正門体当たり/スピード狂か/単車男、80キロで即死
【本文】二十日午後三時五十分ごろ、東京都千代田区永田町一の七の国会議事堂衆議院正門に、国会下から猛スピードで走ってきたオートバイが激突した。オートバイは、鋼鉄製の門にはね返されて、前輪とハンドルがグシャグシャにつぶれ、運転していた川崎市川崎区■■■■の■■、■■■内、トラック運転手上原安隆さん(二六)は、頭と胸の骨を折って即死した。
 麹町署の調べによると、上原さんが乗っていたのは排気量が七百五十㏄の“サーキット族”といわれるオートバイマニアが愛用する大型のもので、国会下から時速八十キロで議事堂に向かって直進、ブレーキもかけずにそのまま衆院正門に激突した。
 事故当時、オートバイが激突した門の約四メートル左側には、国会警備の警視庁機動隊員が立っていたが、危うく難をのがれた。
 この事故で、高さ二・六メートル、幅二・九五メートルの観音開きになっている衆院正門は、直径三センチの鉄棒が、約十センチもひん曲がり、門を押さえていた直径系五センチの鉄製かんぬきも吹っ飛んだ。
 サーキット族の間では、交差点を曲がる場合、ブレーキをかけずにギアの調整で速度を落とし、体を極端に横に倒してカーブを切る“曲乗り”が流行しており、同署では上原さんもシフトダウンしようとしたが、スピードが出過ぎていたため、間に合わずに門に突っ込んだ疑いが強いと見ている。
 しかし、目撃していた機動隊員の話などから正門に激突するまでの上原さんは全く曲がろうとした形跡がなく、事故よりも自殺に近いとする見方もあり、勤務先の同僚や家族などから事情を聞くことにしている。
 上原さんが勤めていた川崎市川崎区■■■の■■■興業の■■■■■社長によると、上原さんは、沖縄県石川市出身。性格は明るく、音楽とオートバイが好きな青年で自殺の動機は、全くないといっている。
【写真キャプション】オートバイが激突、ぐにゃりと曲がった衆院正門の鉄サク

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【出典】日本経済新聞 1973年(昭和48年)5月21日(月曜日)
【タイトル】衆院正門に激突、死ぬ/オートバイ遊びで暴走
【本文】二十日午後三時五十分ごろ、東京都千代田区永田町一ノ七、国会衆議院正門に、警視庁方面から来た神奈川県川崎市川崎区大島三ノ三〇ノ一一、運転手、上原安隆さん(26)のオートバイが突っ込み、日曜のため閉まっていた鉄製のとびらに激突した。この事故でオートバイは大破し、上原さんは頭を強く打って即死した。
 麹町署の調べによると、上原さんは時速八十キロのスピードで突進しており、ブレーキをかけた跡は全くなかった。現場付近は休日になると、オートバイに乗った若い人が猛スピードで走り回ることがよくあるため、同署は車の好きな上原さんがオートバイで遊んでいるうちに判断を誤り事故をおこしたものとみている。

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【出典】毎日新聞 1973年(昭和48年)5月21日(月曜日)
【タイトル】ナゼか――国会に激突死
【本文】二十日午後三時五十分ごろ、東京都千代田区永田町、国会議事堂正面の衆院大門にオートバイ(750CC)が猛スピードで突っ込み運転していた若い男は頭の骨を折って即死した。男は免許証を携帯せず、麹町署で調べたところ、オートバイのナンバーから、川崎市川崎区大島■の■■の■■、■■■興業寮、運転手、上原安隆さん(26)とわかった。
 目撃した議会警備の警察官らの話では「鉄さくが十センチも曲がるほどで、ブレーキは全くかけずハンドルも切ろうとしなかった。わざと突っ込んだように思われる」といっている。しかし遺書めいたものもない。
 上原さんの本籍は沖縄県石川市■■■■■で、ことしの一月中ごろまで東京でタクシーの運転手をしていたという。
 上原さんの勤めている■■■興業には沖縄出身の同僚が数人いるが「性格も明るく、生活もまじめ、仲間とのつき合いもよかった。特に悩んでいた様子はなかった」といっている。事故を起こした“ナナハン”は昨年買ったものだが、スピード狂ではなかったという。

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亡くなった彼に対して不謹慎な感想かもしれませんが、記事を読んで思い浮かんだのが“消失点”とも訳されるタイトルの映画『バニシング・ポイント』(1971年)の壮絶なラストシーンと主人公の表情でした。
あの作品の主人公像の解釈は色々とあるでしょうが、僕は映画から「虚しさ」や「無力さ」を感じ取ったんだと思います。

僕の目にした新聞記事は日曜日午後の事故を報じた月曜日の朝刊のものですから、記者クラブ加盟社の記者たちが警察発表をそのまま鵜呑みにしてなぞったレベルの半ば官製記事みたいなものだと思います。多少の周辺取材を試みた様子はありますが、昨日の今日では締切までの時間不足は否めません。
この事件報道には当時、続報や暫くしてから背景等を掘り下げた検証記事等がもしかすると存在するのかもしれませんが、あまり丁寧に時間をかけてチェックをしたわけではないので発見には至っていません。恐らく事件直後の活版系週刊誌のバックナンバーを丁寧に漁れば何か関連記事が出てくるような期待はありますが、さすがに44年も前の過去の資料となるとアクセスするのもなかなか容易なことではありません。時間を割いて国会図書館にでも出向いて探してみるくらいしか良いアイデアは思い浮かびません。

それにしても、国会正門前の交差点で赤信号で停車中だった彼が、青信号に変わった瞬間にスロットルを開けたと思われる記述には事故というより自殺めいた行為のような印象を受けました。
もちろん遺書は残されていなかったとのことですから彼の胸中をこれだけの記事から推し量ることは出来ません。
「自殺」とすれば、当然にも「何故?」という疑問が横たわります。

後の報道によれば、彼は1970年12月20日未明にコザ市(現沖縄市)で発生した「コザ暴動(コザ反米騒動)」の逮捕者の1人であったそうです。この事件は、その年の夏に飲酒米兵により糸満市の主婦がはねられ即死した事件が軍事法廷で無罪判決となったことへの不満が鬱積していたことも引き金として背景にあったとされています。

Wikipediaによれば、≪コザ暴動(コザぼうどう、英語: Koza Riot)とは、1970年(昭和45年)12月20日未明、アメリカ施政権下の沖縄のコザ市(現在の沖縄県沖縄市)で発生したアメリカ軍車両および施設に対する焼き討ち事件である。直接の契機はアメリカ軍人が沖縄人をはねた交通事故であるが、その背景には米施政下での圧制、人権侵害に対する沖縄人の不満があった。コザ騒動(コザそうどう)、コザ事件(コザじけん)、コザ騒乱(コザそうらん)とも呼ばれる。≫とありました。https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B3%E3%82%B6%E6%9A%B4%E5%8B%95
また事件翌日の地元紙にはこんな記事もありました。

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▼≪出典≫琉球新報 車両炎上 コザ騒動 1970年12月21日朝刊
https://ryukyushimpo.jp/news/prentry-154798.html

 1970年12月20日未明、コザ市(現沖縄市)で米人車による人身事故をきっかけに、群集が米人車75台にガソリンをかけるなどして焼いたほか、嘉手納基地第2ゲートの軍パス発行事務所、基地内の米人小学校の3棟を焼いた。騒ぎは6時間続いた。同市島袋から胡屋交差点に至る1キロの沿道は炎上した車で埋まり、交通も一時封鎖された。この日のコザの夜空は車の炎で染まり、街は群集の怒りに包まれた。
 騒動の発端は、20日午前1時半ごろ、具志川市(現うるま市)に住む男性が京都ホテル前の24号線(現国道330号)を横断中、米人車にはねられ軽傷を負った。ちょうど糸満町(現糸満市)での女性れき殺後間もなかったことから、米憲兵とコザ署による事故調査を見ようと、中の町歓楽街の飲み客ら大勢の人が集まった。
 「女性の二の舞になるな」など罵声(ばせい)が飛ぶ中、憲兵が威嚇発砲した。これにより住民の米軍への不満が一気に爆発。1000人に膨れ上がっていた群集は、憲兵車や米人乗用車をひっくり返しガソリンをかけて放火した。その後も、沿道に駐車中の軍ナンバーなどの米人車を次々に焼き打ちした。
 一時は群集が4000人に達した。その一部は嘉手納基地第2ゲートに向かい、基地内の建物にも火を付けた。米軍は完全武装の憲兵約250人を出動させ、第2ゲートの警備に当たった。警官隊も約500人出動した。
 ランパート米高等弁務官は、ラジオを通してコザ市一帯に「コンディション・グリーン1」(外出禁止令)を発令、全将兵に待機を命じた。
 午前7時半ごろ、騒ぎは収まったが、この日夕方まで火はくすぶり続けた。

◆女性れき殺
 1970年9月18日、糸満町で女性(54)=同町糸満=が、飲酒米兵運転の時速60マイル(約97キロ)の猛スピードで走ってきた車にはねられ即死した。この米兵は軍事裁判で、理由も示されないまま「無罪」となった。

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当時の沖縄は「ベトナム戦争」の帰還兵と一時休暇の米兵で溢れていました。
戦争帰りの殺気だった米兵たちの犯す犯罪件数や交通事故は明らかになっているだけで年間2000件ペースとされ、泣き寝入りなど表面に出ない実際の犯罪件数は更に多かったものと容易に推測されます。
まして米軍施政下の沖縄では、加害者の米兵は基地にさえ逃げ込めばセーフみたいな有様で、被害者の沖縄の人々の蓄積した怒りや不満や不安が沸点寸前であったことは事実だったでしょう。

その「コザ暴動」の逮捕者の彼が国会正門に激突死したのは、それから3年後のことになります。
沖縄に生まれ、沖縄に育った彼が、沖縄の抱える現実や矛盾を多感な青年時代に直接、肌で感じていたであろうことは想像に難くありません。

国会正門激突事故のあった1973年5月20日(日)の各紙の1面トップ記事のタイトルを拾ってみると「国会正常化、さらに遠のく/自民『延長』を単独可決/野党、対決強化/怒りの共同声明/自民、単独審議辞せず」(読売新聞)、「対決色深め延長国会へ/自民『65日間』を単独採決 衆院本会議/野党なお審議拒否/空白打開、メドつかず」(朝日新聞)、「自民『65日延長』を単独議決/空白国会 長期化の様相/審議強行も辞さず/自民、収拾の糸口に悩む/野党、倒閣へ結束/共同声明『独裁の暴挙許さぬ』」(毎日新聞)と小選挙区制を巡って国会は内も外も大荒れの様相でした。
なんとなく最近の乱暴な国会運営と昔も今も大差ないような気がしました。
そんな国会をよそに東京の町は浅草の三社祭りの最終日で賑わってもいたようです。

上原さんのバイクは新聞記事の不鮮明で小さな写真からはホンダ車の「CB750FOUR」シリーズに僕には見受けられました。
1969年のデビュー時の価格が38万5000円だったそうですから、統計上では当時の大卒初任給平均が3万4100円ですから給料丸々1年分に近い価格だったと思われます。
彼は中古で購入されたと新聞にありましたが、たとえ“セコハン”であっても当時の「ナナハンブーム」の到来を考えれば、相当に値の張る買い物だったと思います。
中古であっても憧れのマシンですから、彼にとっても自慢の“一張羅”であったことには変わりはなかったでしょうし、そのナナハンの存在は周囲の羨望と尊敬の眼差しを集めたことでしょう。
バイクは些細な事故が時に生命の危険に及ぶこともある「危険な乗り物」でもありますから「死の匂い」を払拭するのは容易なことではありません。
オートバイ小説の古典ともいえるA.ピエール・ド・マンディアルグの『オートバイ』(1963年)でもラストはレベッカを襲う突然の事故ですし、片岡義男の『ボビーに首ったけ』(1980年)でもストーリーの突然の切断面は同じです。
しかし僕達バイク乗りは、間違っても「死ぬため」ではなく、「より良く生きる為」に、≪バイク乗り≫たらんとして愛機に跨り駆っているはずです。
その愛車をうっかり倒したりなんかして、ちょっとタンクやクランクケースやカウルに傷をつけただけでもかなり悲しい思いをするのも僕達の日常です。
それはきっと彼も同じだったと思います。
だからこそ、愛車ごと国会正門に激突死するなんて行為には、よほどの止むに止まれぬ強い思いや事情があったとしか思えないのです。

国会は「国権の最高機関」であり、唯一の立法機関ですから、それが置かれた国会議事堂は云わば“権力の象徴”の面もあります。
私たちが政治に無関心であっても、ここで何か法律が決まれば無関係ではいられないわけです。
その国会議事堂と正対した時に、彼の中に衝動的に込み上げる何らかの強い思いがあったのではないでしょうか。

太平洋戦争で、沖縄の人々は耐え難い苦しみを受けました。
“鉄の暴風”と形容された米軍の激しい砲爆撃に晒され、県民の4人に1人が亡くなったとされています。そもそもが敵の本土進攻を遅らせる為の時間稼ぎの“捨て石”とされたのが沖縄です。激しい艦砲射撃で吹き飛ばされた人もいます。砲弾に戦闘員と非戦闘員の区別はありません。機銃掃射の中を日本兵に豪を追い出された住民がいたり、沖縄語を使っていることでスパイ容疑を受けたり、住民が集団自決を強いられたような例もあったはずです。
味方のはずの自国兵が住民に死を強いるとしたらとんでもない話ですが、極限状況の下ではそれも現実なんだと私たちは教訓として知っておくべきでしょう。自国の軍隊の銃は外に向かうだけでなく、内に向く時もあるのです。
栄養失調で亡くなる幼子がいたり、子供たちまで戦場に駆り出され命を落としたりと地上戦は地獄図絵の様相を呈し、様々な悲劇を生んでいたはずです。
そして戦後も沖縄県民を覆ったのは米軍支配の長期化の問題でした。
戦後27年間も沖縄は米軍の占領下に置かれたのです。

その沖縄がアメリカの施政権の下から、日本に返還されたのは1945年の敗戦から随分と時を経た1972年5月15日のことです。
ただし、「沖縄返還」が実現したとはいえ、基地負担の偏在や日米地位協定の問題など今日に至るまで未だに解決していない問題が山積みされたままなのも周知の事実だと思います。
「沖縄問題」という言葉がそれを物語っています。
米軍の普天間飛行場の移転先となっている名護市辺野古沖の埋め立て承認を巡り、県と国が真っ向から対立し裁判闘争になっているのは異常な事態です。
私たちは経済成長や安全保障という名分の為に、特定の地域に“犠牲”という名の負担を構造的に押しつけてきたのかもしれません。

国会議事堂への沖縄出身の若者のバイクによる「激突死」が、返還の約1年後であったことが何かを象徴しているような気がしてなりません。
「本土復帰」したとはいえ≪何も変わっていない沖縄の状況≫への抗議の意味を孕んだ肉体的言語だった可能性はないのでしょうか。
それとも「本土復帰」という希望に満ちた言葉とは裏腹の現実に落胆したり、絶望したが故の何かがスロットルを全開にしたのでしょうか。
まるで僧侶の焼身自殺のような印象を、私は彼の激突死に感じてしまいました。そういえば、かつて首相官邸前でアメリカのベトナム『北爆』を支持した当時の首相への抗議の焼身自殺を遂げた方もいました。1967年のことです。

話を沖縄出身の青年の国会正門激突死に戻しますが、この事件を読み解く鍵となると思われる事故後39年時の地元紙のコラムを見つけましたので引用してみます。


【出典】沖縄タイムス 2012年5月17日 コラム「大弦小弦」
▼復帰から40年。国権の最高機関とされる国会の前に立ち、この地で自らの命を絶った県出身の青年に思いをめぐらせた
▼青年は恩納村喜瀬武原生まれの上原安隆さん=享年26歳。復帰1年後の1973年5月、バイクで国会議事堂正門に正面衝突、亡くなった。米軍統治への怒りを爆発させた「コザ騒動」に加わり、起訴された一人だった
▼上原さんの死を追ったドキュメンタリー「激突死」を製作したジャーナリストの森口豁 さん(74)は「復帰と同時に本土では沖縄離れが始まった。米軍基地は変わらなかった。政府、日本への失望と怒りの訴えだったのではないか」という
▼いまだ基地が集中する実態は続く。日米政府は沖縄の反対を無視し、普天間飛行場の辺野古移設に固執している。14日未明からはPAC3展開訓練が強行され、節目の日を静かに迎えることさえできない
▼東京で沖縄問題が話題に上ると、「振興策をもらっているのだから辺野古移設を受け入れるべきだ」という批判を受けることがある。負担軽減を訴える反論にさえ、「文句があるなら独立すべきだ」とぶつけられたこともある
▼基地問題をめぐる本土側との溝は深い。県民の多くが差別を感じている。変わらない現実に、たった1人で抵抗した上原さん。その死を無駄にしてはいけない。(与那原良彦)


不勉強な私は上記コラムの中で触れられている、この事故を5年後に追ったドキュメンタリー作品『激突死』(1978年)を未だに観ていません。
監督でジャーナリストの森口豁(かつ)さんは大学を中退して復帰前の沖縄に移り住み、琉球新報の記者や日本テレビの沖縄特派員として一貫して沖縄に目を向け作品を世に放ってこられた方だそうです。
都内でも2008年11月に山形国際ドキュメンタリー映画祭関連イベントで上映されたり、先日もアジア太平洋資料センターの連続講座で上映されたようですが、未だに機会を見逃したままです。

森口さんの注目すべき記事には2000年12月20日の琉球新報に寄せられた「たった一人のコザ暴動 国会正門に激突死した青年」という記事があるそうです。まだ読む機会には恵まれていませんが、1970年12月20日発生のコザ暴動から30年目の日に掲載されたという事情や、同じタイミングで沖縄タイムスにも「国会に激突、県出身なぞの死 あれは政府への抗議」という記事も存在したそうですから、やはり激突死と沖縄の抱える問題を事故の背景として無視はできそうもないのかもしれません。
掲載された年月日の詳細は残念ながら不明ですが、沖縄タイムス紙に彼の双子の兄の談話として「弟は、時の権力者や為政者というものに対する不満を常に持っていた。国会議事堂を前にして、日ごろの思いが突然込み上げてきたんだろう。突発的な、為政者への一つの抗議だったと思う」というのを発見しました。やはり語られていないことはありそうです。

日本のマスメディアは記者クラブ制度に依存しがちで、俗に「発表ジャーナリズム」なんて批判もあるように、中央省庁や警察から与えられる情報を鵜呑みにして批判や検証もせずに垂れ流す傾向や問題点があります。
彼の死についても、「同署は車の好きな上原さんがオートバイで遊んでいるうちに判断を誤り事故をおこしたものとみている」(日経新聞)を端的な例として見るようにもしかすると意識的に事件を矮小化しているような気さえしてきます。
「沖縄返還問題や、小選挙区制問題など、政治問題に特別強い関心を持っていたわけでもなかったという」(朝日新聞)ともありますが、これも彼が内面を周囲に吐露しなければわからないわけですから、これだけの証言で、これが事実なのかどうかは誰にもわかりません。
もしかしたら政治的背景のあるかもしれない覚悟の≪事件≫を、単なる交通≪事故≫として処理して片付けようとしたのかもしれません。

彼の死亡場所は国会正門でしたが、1960年6月15日には国会南門で東大文学部生の22歳の樺美智子さんが60年安保闘争の過程で亡くなっています。
彼女の場合は全学連(主流派)メンバーとして国会内に突入した際の機動隊との激しい衝突の最中での死でした。彼女の場合は遺稿集『人しれず微笑まん』や書簡集『友へ―樺美智子の手紙』といったものからでもなんとなく人柄や何を感じていたのかを辿ることが出来ます。
そして「6.15」というメモリアルな記憶として今も多くの人々の記憶の中に生き続けています。
自殺という意味では1965年に21歳で睡眠薬自殺された奥浩平さんの遺稿集『青春の墓標』や、1969年に20歳で飛び込み自殺を遂げた高野悦子さんの日記『二十歳の原点』シリーズなどで内面の苦悩や葛藤を知ることが出来ます。自動延長のおかげで“幻の80年安保”世代となった私のような世代の本棚にも埃を被ってはいますが並んでいるくらいですから、ある世代の方々には広く読まれた本だと思います。

ところが彼には遺書もなければ、日記や手紙などでも彼の内面を辿ることも出来ないようです。
「バイク乗りは寡黙である」と云われることがあります。
「言葉を持たないのがバイク乗り」と言い切ってしまうと語弊もありますが、案外と口数の少ないタイプも多いのかもしれません。
走りやカスタムで自己表現をする方も多いでしょうから、私のような無駄にお喋りな性格の奴はむしろ異端なのかもしれません。
バイクに乗る愉しみや、バイク旅で出会う自然の素晴らしさを言葉で表現しようとしても、己の表現力の貧しさ故に陳腐になってしまったり、それを誰かに伝えることの難しさを前にして、ついつい寡黙になりがちになるのかもしれません。
現に彼の勤務先の先輩の話として「まじめで静かな青年だった。趣味のバイクであちこち行くのを楽しみにしていた」という証言がネット上にありました。
彼と同じアパートに住んでいた友人の話としては「休みの日には、アパートで一人、高橋和己の『孤立無援の思想』などを読んだり、ギターをひく青年だった」というのもありました。
バイクで走りに出かけるのが好きで、音楽やギター演奏も趣味で、読書家であったとしたら、自分自身の趣味に照らし合わせても何ら変わらないごく普通の若者像しか浮かんできません。
実際、私もバイクが好きで、様々なジャンルの音楽に触れ、下手なギター(エレキベース)を掻き鳴らすのを趣味とし、本に親しむのも好きなタイプです。
ここで彼の友人の話として作家『高橋和己』さんと、評論集『孤立無援の思想』が登場しています。
難解そうな先入観や暗さがあって個人的には敬遠し続けてきた作家です。
大学時代、サークルの先輩に「君は高橋和己も読んだことがないのか?『散華』くらい読んでおけよ」と呆れられた記憶がありますが、やっぱり苦手意識が先行して本棚の肥やしになったままで今日に至っています。
その頃、高校生時代から好きで聴いていたシンガーソングライターの森田童子の1982年のアルバム『夜想曲』に収録されていた『孤立無援の唄』を耳にした時に歌詞の中に≪貸し本屋の軒下で雨宿り/君はむずかしい顔して/立ち読みしながら本を盗んだ/僕の自転車の後ろで/「孤立無援の思想」を読んだ≫、≪壁に向かって逆立ちして笑った/机の上の高橋和巳は/起こった顔して逆さに見える≫という一節を見つけ、高橋和己やその著書に興味を覚えたこともあったように記憶しています。
高橋和己は1960年代から70年代はじめにかけてかなり読まれた作家で、タイトルからして気を引く『孤立無援の思想』などはベストセラーという表現には抵抗がありますが、広く読まれていたこともありますので、これが事件を読み解く鍵にはなるとはまったく思いませんが、良い機会なので今夏は挑戦してみようかと考えています。

44年前の国会正門に激突死された彼の死に対する捉え方や受け止め方は千差万別だと思いますし、事件の真相にはわからないことも多いと思います。
世代も違いますし、会ったことも見かけたこともないけれど、それでも同じバイク乗りの1人として、彼の死に、心の中で静かに手を合わせ、頭を垂れることや、その理由の不在に漠たる想いを馳せることに異を唱えるような野暮な方はいないとは思います。
医療上の死亡定義での死が最初の死とすれば、その人のことを誰もが忘れ去ってしまうことで初めて本当の意味で死んでいくような気もします。
まして、彼が命を賭けてまで問いかけたかったような問題がそこに横たわっていたとしたら、彼の死を忘れ去ってしまうことはあまりにも悲しく酷い気さえして簡単ではありますが記させてもらいました。
この激突事故は、1970~1980年代からの旧いバイク乗りであれば、なんとなく記憶の片隅に「そ~いえば、昔、そんなことがあったよな」程度には残っているであろう出来事ではありますが、若い世代は知る由もないかとも思いましたし、いまどきの軽薄短小なバイク雑誌ではテーマが重くて扱いきれない気もしています。
それでも来年は彼の死から45年になりますから、1誌くらい掘り下げて扱って欲しい期待もありますけどね。
バイク乗りとして、記憶に留め継承することや、精神のリレーは必要な気がします。

とかく、中央集権国家から見たら、支配の及ばぬ辺境の土地は征服と収奪の対象でしかなかったと思います。それは、北海道であったり、東北、九州、沖縄であったとも想像できます。そんな地域に平和に暮らしていた人々は「まつろわぬ民」として、虐げられ続けてきた歴史があります。どうせバイク旅をするならば、そんな土地を訪れては何か学びとったり感じてみたい気がします。
何事にも気分的には迎合も屈服もしたくもないのが私の性格です。
何時か路上で!無事是名馬也!

【文責】小池延幸(58)/ZRX1200 DAEG
明治学院大MC『井戸端会議』初代総長


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44年前のある激突死・・・。
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